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「何でもありの個人主義」



 今日一日(7月11日)、朝日朝刊の論壇に寄稿されている、江戸川大学助教授の小笠原祐子氏の文章が頭から離れませんでした。その書き出しは、
 「教育の現場に携わるものとして以前から気になることがあった。学生たちと何を議論していても、たいていだれかが『私はこう思うけれど、人それぞれ、いろいろな考えがあると思うし、それでいい』という趣旨の意見を述べ、そのとたん、議論が成り立たなくなることである。」
という文章で始まります。ものわかりがよいような姿勢は示すが、相手の言うことは真剣に聞くこともしない。私も、最近の傾向としてそのようなことが多いという思いを持っていました。
 「『価値観の多様化』や『個人の自由』と言う言葉の響きのよさにまどわされて、私たちは異なる意見に耳を傾け、異なる立場の人々に心を重ねる努力を怠ってはいまいか。」
 人の話を良く聞き吟味して、自分の立場を明らかにする。そんな努力をハナから拒否する言葉として、「人それぞれ」と言う言葉があったのだなと考えさせられました。
 お東の同朋会運動の標語に「ばらばらで一緒」ということばがあります。とてもセンスのよい標語で、私も時々使わせていただいています。民族とか人種とか性別等の違いを超えて、それぞれが特徴を発揮し共存する社会をめざすという意味のこもった標語です。
 しかし、自分の立場が明らかになってもいないのに「ばらばらで一緒」といい気分になったとしても、それは軽薄な自分主義と言うことになってしまい、他に不快こそ与えこそすれ本当の共存とはなり得ないのだと思います。
 けっして、お東の標語を批判しているのではありません。その言葉の美しさだけで満足してしまい、結局は個々の問題や主張に耳を傾けることもしないでいることを自戒してのことであります。
 人の意見をとことん聞く。わからないことは質問する。そして、違いを明らかに認識してこそ共存が成り立つのだと思います。違いを理解しようともしないで、「人それぞれ」として分かったつもりになる。それはむしろ、自らは認めているつもりになっている相手に対して、心ない言動や行為をしていることに気づくこともできない状態になっているということではないでしょうか。ましてや、対立の内容によっては中立などあり得ない問題もあり得るのです。そのような場合には、事実を知り、事の善し悪しを判断しなければなりません。中立を装うことは一方を利することになってしまいます。

                             小林泰善
論壇
「何でもあり個人主義」の退廃
    小笠原 祐子 江戸川大学教授(社会学)

 教育の現場に携わるものとして以前から気になることがあった。学生たちと何を議論していても、たいていだれかが『私はこう思うけれど、人それぞれ、いろいろな考えがあると思うし、それでいい」という趣意見を述べ、そのとたん、議論が成り立たなくなることである。
 「人それぞれ」で「何でもあり」となれば、社会問題の大半が個人の好みと選択の問題に矮小化されてしまう。ゼミでは「人それぞれ』を禁句にするなどの対策をとってはみたものの、私は学生の問に蔓延する個人志向的考え方にきちんと対峙できずにいた。そのようなとき、ある授業で学生たちが書いたリポートを読んで、頭を殴られたようなショックを受けた。
 このところ過失とはとうてい思えないような悲惨な交通事故のニュースが相次いでいる。そこで交通事故や被害者の人権について、これから免許を取得する若い人に考えてもらいたくて、二木雄策氏の『交通死』という本の読書リポートを課した。
 大学生だった二木氏のお嬢さんは、自転車で交差点を横断中、赤信号を無視して突入してきた自動車にはねられて亡くなった。加害者の女性は執行猶予付きの判決で刑務所に入ることもなく、また、損害賠償の交渉も支払いも保険会社が代行した。
 加害者の信号無視で被害者は命を奪われたのに、加害者は(少なくとも形の上では)以前と変わらぬ生活を送ることができるのだ。加害者に手厚い現行の諸制度は、人の命よりも車(イコール企業)を重んじる社会だとの著者の主張には説得力があると私は思っていた。
 ところが少なからぬ学生の反応は予想をしないものだった。「加害者がかわいそう」だと言うのである。被害者の立場からの主張のみが述べられているのは「客観性に欠ける」という。私は頭を抱えてしまった。二木氏の文章は、娘を失った父親の沈痛な思いがせつせつと伝わってくるものの、決して激情に駆られて書かれたものではない。むしろよくここまで冷静に書けるものだと感心するくらいなのだ。
 もちろん加害者には加害者の人生がある。しかし学生たちは、その人生に豊かな社会的想像力を働かせるわけでもなく、単に、被害者側の見解だけでは一方的だと主張する。杓子定規に客観的・中立的立場を求めなけれはいけないと思いこんでいるようなのだ。まるで立場の異なる二者の間で意見の対立が見られた場合には、足して二で割ればちょうどよいとでも言わんばかりに。
 なぜ学生たちは、加害者と被害者の対立図式にこだわり、著者が訴える問題の社会的広がりに気づかないのか。もどかしい思いでリポートを読むうちに合点がいった。例の「人それぞれ」である。
 あらゆる意見が私的なものであれは、娘の交通事故死を経験して「くるま社会」の異常さを訴える父親の主張も一つの個人的立場に過ぎず、その意味では加害者の立場と等価なのだ。主張の対立のなかから、あるべき社会の姿を模索する努力を放棄したとき、社会正義は足して二で割るというような手続き上の公平さに求めさるを得ない。
 戦後日本の教育は、伝統や社会の抑圧に抗して個人の権利と自律性の尊重を強調してきた。その結果、決して十分ではないものの、今日その成果の一部を個人主義的なものの見方や考え方の浸透に見ることができる。しかし、個人主義は両義的である。個人の行為は必ず周囲へ影響するが、その波及効果に思いをめぐらすことなく個人主義を追求すれは、単なる自分主義に終わってしまう。
 「価値観の多様化」や「個人の自由」ということばの響きのよさにまどわされて、私たちは異なる意見に耳を傾け、異なる立場の人々に心を重ねる努力を怠ってはいまいか。しょせんいろいろな考え方があるからと、初めから議論を高める努力を放棄してはいないか。個人主義志向を無批判に是とする教育は、そろそろ見直すべきときに来ている。          
                   =投稿     (朝日新聞 2000.7.11)


  


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