仏教ちょっと教えて 




051 信仰心と病気


Q: 私は、健康に自信があり、定年後も全国各地の寺を歩き信仰を深めてきました。ところが、最近体調が思わしくなく病院で診察していただいたところ大腸ガンと診断されました。あれほど誠実にお参りして来ましたのに、私の信心がたらなかったのでしょうか。それとも信仰の度合いと病気とは関係ないのでしょうか。最近、近所のお婆さんが事故で亡くなりましたが、この人も熱心な方で、お寺の法座には欠かさず参っていました。それなのにあんな不幸になってしまったのを見ると、神も仏もないものかという思いが心をよぎります。(七十五歳・男)


A:   以前、ある方から、是非お仏壇でお経をあげてほしいとの依頼がありました。そのお宅を尋ねて、その家のご主人が、ガンで長いこと入院をしておられたことをはじめて知りました。そのご主人は、信心深いことを自認している方で、以前、四国八十八ヵ所巡りの朱印帳を見せてくださったことがありました。終始笑顔の会話ではありましたが、そのご主人から、札所めぐりや霊場めぐりなどを重ねて、功徳を積んできたのに、なぜこのような病気になってしまったのかという思いが伝わってきました。その場で、どうしたらこの方に安心していただく言葉をかけられるか、頭のなかでいろいろと考えたのですが、残念ながら、その時の私には、適当な言葉が浮かんできませんでした。
 「それだけの功徳を積んでこられたのですから、きっと良いことがありますよ」とでも私が言えば、安心していただけたことでしょう。しかし、それは口先だけの空言でしかなく、一時しのぎの安心は得られるかもしれませんが、本当の解決にはなりません。
 このような方は、最近ではむしろ大勢いらっしゃると思います。申し上げにくいのですが、信心深いと自認しているばっかりに、お寺に来ていながら、仏法に遇うことができないでいる方々なのです。だからこそ、自分にとって都合の悪いことが起こると、何が悪かったのだろうと思い悩むのです。
 阿弥陀さまは、むしろ、そのような人びとを目当てにはたらいてくださっています。生きているからこそ病も得、老いも背負わなければならないのが人生です。縁にふれればどのような状況になるともわからないのが、私たちの人生です。そして、そのことをすべて承知の上で引き受けてくださるのが阿弥陀さまです。
 かなわぬ願いをあてにしてそれを信心と思い込み、右往左往している必要はないのです。もっとずっと大きな支えが、私たちにはあるのですから。
 寺に参るということは、信心をして仏さまからご利益をいただくためではありません。社会や家庭でいろいろな悩みを背負い、病や老いなど将来への不安の中であれこれとジタバタするのではなく、それらのことをしっかりと受け止めて地に足をつけて人生を歩むために仏法があるのです。寺に参るのは、その仏法を身につけるためなのです。
 ある研修会の時、こんな質問がありました。
 「私の母は、お寺のご法座には欠かさず参拝する熱心な門徒でしたが、最近老人性痴呆症になり、口癖のように『ものがなくなった盗まれた』と言い、家族がみんなとても悲しい思いをしています。そんな、母でも往生できるのでしょうか」と。
 現実に、私たちは誰もが、思うようにならない肉体と思うようにならない心を持っています。生身の体である限り、どのような病が待っているのか分からないのが現実です。老人性痴呆症などのように、自身の生活の上で、本人の意志では自分自身を制御することのできない病気もあります。
 しかし心配はいらないのです。なぜならば、阿弥陀さまは、衆生の老病死の苦しみをすべて引き受けた上で、すくい取ってくださるからです。親鸞聖人はお手紙の中で、「体の病からくるものであるならば、往生の有無について論ずる必要はありません」と明言しておられます。
 また、親鸞聖人は『教行信証』に、元照律師の「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す」ということばを引用しています。信をいただいたならば、臨終が悪相であったとしても往生するのです。信心をいただいていれば、ひとの死にようは問題にならないのです。
 事故でなくなられたお婆さんも、かならずお浄土に往生されているのです。世間では、美しい死を願ったり、無責任にひとの死を評価したりすることがよくあります。しかし、私たちは、縁にふれれば、どんな死に方をしないとも限りません。
 阿弥陀さまは、そのことを見通された上で、すくい取り、お浄土へ導いてくださるのです。

回答者: 小林 泰善
(『法話情報大事典』雄山閣より転載)



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